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風の又三郎

  九月一日

 どっどどどどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰も来ていないのを見て
「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大悦びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼をりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から
「ちょうはあかぐり ちょうはあかぐり」と高く叫ぶ声がしてそれからまるで大きな烏のように嘉助が、かばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて云いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云えませんでした。
 赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりちゃんと座ってじっと黒板を見ています。
 すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大股にやってきてみんなを見て「何した」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄をしっかりかかえてさっさと窓の下へ行きました。
 みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「誰だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。
「お天気のいい時教室さ入ってるづど先生にうんと叱られえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。
「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。
「早ぐ出はって来 出はって来」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛に座っていました。
 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠いろのだぶだぶの上着を着て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革の半靴をはいていたのです。それに顔と云ったらまるで熟した苹果のよう殊に眼はまん円でまっくろなのでした。一向語が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「あいつは外国人だな」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり
「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫びましたので「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。
 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。
 そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもは何だかにやっとわらってすこしうごいたようでした。すると嘉助がすぐ叫びました。
「ああわかったあいつは風の又三郎だぞ。」
 そうだっとみんなもおもったとき俄かにうしろの方で五郎が
「わあ、痛ぃぢゃあ。」と叫びました。みんなそっちへ振り向きますと五郎が耕助に足のゆびをふまれてまるで怒って耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助も怒って
「わあ、われ悪くてでひと撲ぃだなあ。」と云ってまた五郎をなぐろうとしました。五郎はまるで顔中涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、喧嘩するなったら、先生ぁちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が云いながらまた教室の方を見ましたら一郎は俄かにまるでぽかんとしてしまいました。たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友達になった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕った山雀に遁げられたように思いました。
 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた云わせうしろの山の萱をだんだん上流の方へ青じろく波だてて行きました。
「わあうなだ喧嘩したんだから又三郎居なぐなったな。」嘉助が怒って云いました。みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申し訳けないと思って足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」
「二百十日で来たのだな。」
「靴はいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておがしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かげ乗せでったぞ。」二年生の子が云いました。見るとその子の机の上には汚ない石かけが乗っていたのです。
「そうだ。ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「そだなぃでぁ。あいづぁ休み前に嘉一石ぶっつけだのだな。」
「わあい。そだなぃでぁ。」と云っていたときこれはまた何という訳でしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼子を右手にもってもう集れの支度をしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで白いシャッポをかぶって先生についてすぱすぱと歩いて来たのです。
 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と云いましたのでみんなもついて「先生お早うございます」と云っただけでした。「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向うの山へひびいてまたピルルルと低く戻ってきました。
 すっかりやすみの前の通りだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、三年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
 二年生は八人一年生は四人前へならえをしてならんだのです。するとその間あのおかしな子は何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌を噛むようにしてじろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田さんこっちへおはいりなさいと云いながら四年生の列のところへ連れて行って丈を嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。先生はまた玄関の前に戻って
 前へならえと号令をかけました。
 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたがじつはあの変な子がどういう風にしているのか見たくてかわるがわるそっちをふりむいたり横眼でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから嘉助は何だかせなかがかゆいかくすぐったいかという風にもじもじしていました。
「直れ」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」
 そこで一年生はあるき出しまもなく二年も三年もあるき出してみんなの前をぐるっと通って右手の下駄箱のある入口に入って行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとのものもじっと見ていたのです。
 まもなくみんなははきものを下駄箱に入れて教室へ入って、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机に座りました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろに座りました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机代ってるぞ。」
「わあ、おらの机さ石かけ入ってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあい、さの、木ぺん借せ、木ぺん借せったら。」
「わぁがない。ひとの雑記帳とってって。」
 そのとき先生が入って来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり一郎がいちばんうしろで「礼」と云いました。
 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたがそれから又がやがやがやがや云いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が云いました。
「叱っ、悦治、やがましったら。嘉助ぇ、喜っこぅ。わあい。」と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人ずつ叱りました。
 みんなはしんとなりました。先生が云いました。
「みなさん長い夏のお休みは面白かったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹にも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももう昨日で休みは終りました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋は一番からだこころもひきしまって勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から又いっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友達が一人ふえました。それはそこに居る高田さんです。その方のお父さんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられたのです。高田さんはいままでは北海道の学校に居られたのですが今日からみなさんのお友達になるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾いや魚とりに行くときも高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
 すぐみんな手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたがすぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と云いましたのでみんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
 ところが嘉助がすぐ「先生。」といってまた手をあげました。
「はい、」先生は嘉助を指さしました。
「高田さん名は何て云うべな。」
「高田三郎さんです。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手を叩いて机の中で踊るようにしましたので、大きな方の子どもらはどっと笑いましたが三年生から下の子どもらは何か怖いという風にしいんとして三郎の方を見ていたのです。先生はまた云いました。
「今日はみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
 みんなはばたばた鞄をあけたり風呂敷をといたりして通信簿と宿題帖を机の上に出しました。
 そして先生が一年生の方から順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。という訳はみんなのうしろのところにいつか一人の大人が立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかした半巾をネクタイの代りに首に巻いて手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしぃんとなってまるで堅くなってしまいました。ところが先生は別にその人を気にかける風もなく順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと三郎は通信簿も宿題帖もない代りに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帖はこの次の土曜日に直して渡しますから、今日持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんとコージさんとリョウサクさんとですね。では今日はここまでです。あしたからちゃんといつもの通りの仕度をしてお出でなさい。それから五年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除をしましょう。ではここまで。」
 一郎が気を付けと云いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人も扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇を下りてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友達になりますから、」先生も礼を返しながら云いました。
「何分どうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして眼で三郎に合図すると自分は玄関の方へまわって外へ出て待っていますと三郎はみんなの見ている中を眼をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき二人は運動場を通って川下の方へ歩いて行きました。
 運動場を出るときその子はこっちをふりむいてじっと学校やみんなの方をにらむようにするとまたすたすた白服の大人について歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのお父さんすか。」一郎が箒をもちながら先生にききました。
「そうです。」
「何の用で来たべ。」
「上の野原の入口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにする為だそうです。」
「どごらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから少し川下へ寄った方なようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が云いました。
「又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が云いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤にしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ。」一郎が云いました。
「わぁい。やんたぢゃ。今日五年生ど六年生だな。」
 嘉助は大急ぎで教室をはねだして遁げてしまいました。
 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り雑巾を入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

    九月二日、

 次の日一郎はあのおかしな子供が今日からほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がしていつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助の方は一郎よりもっとそう考えていたと見えてとうにごはんもたべふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを談しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集っていて棒かくしをしていましたがその子はまだ来ていませんでした。また昨日のように教室の中に居るのかと思って中をのぞいて見ましたが教室の中はしいんとして誰も居ず黒板の上には昨日掃除のとき雑巾で拭いた痕が乾いてぼんやり白い縞になっていました。
「昨日のやつまだ来てないな。」一郎が云いました。
「うん」嘉助も云ってそこらを見まわしました。
 一郎はそこで鉄棒の下へ行ってぢゃみ上りというやり方で無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くとそこへ腰掛けて昨日又三郎の行った方をじっと見おろして待っていました。谷川はそっちの方へきらきら光ってながれて行きその下の山の上の方では風も吹いているらしくときどき萱が白く波立っていました。嘉助もやっぱりその柱の下じっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに永く待つこともありませんでした。それは突然又三郎がその下手のみちから灰いろの鞄を右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ」と一郎が思わず下に居る嘉助へ叫ぼうとしていますと早くも又三郎はどてをぐるっとまわってどんどん正門を入って来ると
「お早う。」とはっきり云いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが一人も返事をしたものがありませんでした。それはみんなは先生にはいつでも「お早うございます」というように習っていたのでしたがお互に「お早う」なんて云ったことがなかったのに又三郎にそう云われても一郎や嘉助はあんまりにわかで又勢がいいのでとうとう臆せてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりにもにゃもにゃっと云ってしまったのでした。ところが又三郎の方はべつだんそれを苦にする風もなく二三歩又前へ進むとじっと立ってそのまっ黒な眼でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらく誰か遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきろきろ又三郎の方は見ていてももじもじしてやはり忙しそうに棒かくしをしたり又三郎の方へ行くものがありませんでした。又三郎はちょっと工合が悪いようにそこにつっ立っていましたが又運動場をもう一度見まわしました。それからぜんたいこの運動場は何間あるかというように正門から玄関まで大股に歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねておりて嘉助とならんで息をこらしてそれを見ていました。
 そのうち又三郎は向うの玄関の前まで行ってしまうとこっちへ向いてしばらく諳算をするように少し首をまげて立っていました。
 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。又三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向う側の土手の方へ職員室の前を通って歩き出しました。
 その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり運動場のまん中でさあっと塵があがりそれが玄関の前まで行くときりきりとまわって小さなつむじ風になって黄いろな塵は瓶をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。すると嘉助が突然高く云いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいつ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。又三郎はそんなことにはかまわず土手の方へやはりすたすたと歩いて行きます。
 そのとき先生がいつものように呼子をもって玄関を出て来たのです。
「お早うございます。」小さな子どもらははせ集りました。
「お早う。」先生はちらっと運動場中を見まわしてから「ではならんで。」と云いながらプルルッと笛を吹きました。
 みんなは集ってきて昨日のとおりきちんとならびました。又三郎も昨日云われた所へちゃんと立っています。先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけてとうとうみんなは昇降口から教室へ入りました。そして礼がすむと先生は
「ではみなさん今日から勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生と二年生の人はお習字のお手本と硯と紙を出して、三年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
 さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも又三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎がいきなり手をのばして三年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは
「うわあ兄な木ぺん取ってわかんないな。」と云いながら取り返そうとしますと佐太郎が「わあこいつおれのだなあ。」と云いながら鉛筆をふところの中へ入れてあとは支那人がおじぎするときのように両手を袖へ入れて机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、
「兄な、兄なの木ぺんは一昨日小屋で無くしてしまったけなあ。よこせったら。」と云いながら一生けん命とり返そうとしましたがどうしても佐太郎は机にくっついた大きな蟹の化石みたいになっているのでとうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。すると又三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたがかよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見るとだまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の眼の前の机に置きました。すると佐太郎はにわかに元気になってむっくり起き上りました。そして「呉れる?」と又三郎にききました。又三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように「うん」と云いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
 先生は向うで一年生の子の硯に水をついでやったりしていましたし嘉助は又三郎の前ですから知りませんでしたが一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。
 そしてまるで何と云ったらいいかわからない変な気持ちがして歯をきりきり云わせました。
「では三年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に□□と書きました。三年生のこどもらはみんな一生けん命にそれを雑記帖にうつしました。かよも頭を雑記帖へくっつけるようにして書いています。「四年生の人はこれを置いて」□□と書きました。四年生は佐太郎をはじめ喜蔵も甲助もみんなそれをうつしました。
「五年生の人は読本〔一字空白〕頁の〔一字不明〕課をひらいて声をたてないで読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑記帖へ拾って置くのです。」
 五年生もみんな云われたとおりしはじめました。
「一郎さんは読本の〔一字空白〕頁をしらべてやはり知らない字を書き抜いてください。」
 それがすむと先生はまた教壇を下りて一年生と二年生の習字を一人一人見てあるきました。又三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって云われたところを息もつかずじっと読んでいました。けれども雑記帖へは字を一つも書き抜いていませんでした。それはほんとうに知らない字が一つもないのかたった一本の鉛筆を佐太郎にやってしまったためかどっちともわかりませんでした。
 そのうち先生は教壇へ戻って三年生と四年生の算術の計算をして見せてまた新らしい問題を出すと今度は五年生の生徒の雑記帖へ書いた知らない字を黒板へ書いてそれをかなとわけをつけました。そして
「では嘉助さんここを読んで」と云いました。嘉助は二三度ひっかかりながら先生に教えられて読みました。
 又三郎もだまって聞いていました。先生も本をとってじっと聞いていましたが十行ばかり読むと
「そこまで」と云ってこんどは先生が読みました。
 そうして一まわり済むと先生はだんだんみんなの道具をしまわせました。それから「ではここまで」と云って教壇に立ちますと一郎がうしろで「気を付けい」と云いました。そして礼がすむとみんな順に外で出てこんどは外へならばずにみんな別れ別れになって遊びました。
 二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンをもって出て来てみんなはいままでに唱ったのを先生のマンドリンについて五つもうたいました。
 又三郎もみんな知っていてみんなどんどん歌いました。そしてこの時間は大へん早くたってしまいました。
 三時間目になるとこんどは三年生と四年生が国語で五年生と六年生が数学でした。先生はまた黒板へ問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって一郎が答えを書いてしまうと又三郎の方をちょっと見ました。すると又三郎はどこから出したか小さな消し炭で雑記帖の上へがりがりと大きく運算していたのです。

      九月四日、日曜

 次の朝空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と悦治をさそって一諸に三郎のうちの方へ行きました。学校の少し下流で谷川をわたって、それから岸で楊の枝をみんなで一本ずつ折って青い皮をくるくる剥いで鞭を拵えて手でひゅうひゅう振りながら上の野原への路をだんだんのぼって行きました。みんなは早くも登りながら息をはあはあしました。
「又三郎ほんとにあそごの湧水まで来て待ぢでるべが。」
「待ぢでるんだ。又三郎偽こがなぃもな。」
「ああ暑う、風吹げばいいな。」
「どごがらだが風吹いでるぞ。」
「又三郎吹がせだらべも。」
「何だがお日さんぼゃっとして来たな。」
 空に少しばかりの白い雲が出ました。そしてもう大分のぼっていました。谷のみんなの家がずうっと下に見え、一郎のうちの木小屋の屋根が白く光っています。
 路が林の中に入り、しばらく路はじめじめして、あたりは見えなくなりました。そして間もなくみんなは約束の湧水の近くに来ました。するとそこから
「おうい。みんな来たかい。」と三郎の高く叫ぶ声がしました。
 みんなはまるでせかせかと走ってのぼりました。向うの曲り角の処に又三郎が小さな唇をきっと結んだまま三人のかけ上って来るのを見ていました。三人はやっと三郎の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云えませんでした。嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向いて
「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。すると三郎は大きな声で笑いました。
「ずいぶん待ったぞ。それに今日は雨が降るかもしれないそうだよ。」
「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水呑んでぐ。」
 三人は汗をふいてしゃがんでまっ白な岩からこぼこぼ噴きだす冷たい水を何べんも掬ってのみました。
「ぼくのうちはここからすぐなんだ。ちょうどあの谷の上あたりなんだ。みんなで帰りに寄ろうねえ。」
「うん。まんつ野原さ行ぐべすさ。」
 みんなが又あるきはじめたとき湧水は何かを知らせるようにぐうっと鳴り、そこらの樹もなんだかざあっと鳴ったようでした。
 四人は林の裾の藪の間を行ったり岩かけの小さく崩れる所を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
 みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向うに川に沿ったほんとうの野原がぼんやり碧くひろがっているのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のようだな。」又三郎が云いました。
「何のようだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のようだ。」
「うな神さんの帯見だごとあるが。」
「ぼくは北海道で見たよ。」
 みんなは何のことだかわからずだまってしまいました。
 ほんとうにそこはもう上の野原の入口で、きれいに刈られた草の中に一本の巨きな栗の木が立ってその幹は根もとの所がまっ黒に焦げて巨きな洞のようになり、その枝には古い縄や、切れたわらじなどがつるしてありました。
「もう少し行ぐづどみんなして草刈ってるぞ。それがら馬の居るどごもあるぞ。」一郎は云いながら先に立って刈った草のなかの一ぽんみちをぐんぐん歩きました。
 三郎はその次に立って
「ここには熊居ないから馬をはなして置いてもいいなあ。」と云って歩きました。
 しばらく行くとみちばたの大きな楢の木の下に、縄で編んだ袋が投げ出してあって、沢山の草たばがあっちにもこっちにもころがっていました。
 せなかに〔約二字分空白〕をしょった二匹の馬が、一郎を見て、鼻をぷるぷる鳴らしました。
「兄な。居るが。兄な。来たぞ。」一郎は汗を拭いながら叫びました。
「おおい。ああい。其処に居ろ。今行ぐぞ。」
 ずうっと向うの窪みで、一郎の兄さんの声がしました。
 陽がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑って出て来ました。
「善ぐ来たな。みんなも連れで来たのが。善ぐ来た。戻りに馬こ連れでてけろな。今日ぁ午まがらきっと曇る。俺もう少し草集めて仕舞がらな、うなだ遊ばばあの土手の中さ入ってろ。まだ牧場の馬二十疋ばがり居るがらな。」
 兄さんは向うへ行こうとして、振り向いて又云いました。
「土手がら外さ出はるなよ。迷ってしまうづど危なぃがらな。午まになったら又来るがら。」
「うん。土手の中に居るがら。」
 そして一郎の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、太陽は白い鏡のようになって、雲と反対に馳せました。風が出て来てまだ刈ってない草は一面に波を立てます。一郎はさきにたって小さなみちをまっすぐに行くとまもなくどてになりました。その土手の一とこちぎれたところに二本の丸太の棒を横にわたしてありました。耕助がそれをくぐろうとしますと、嘉助が
「おらこったなもの外せだだど」と云いながら片っ方のはじをぬいて下におろしましたのでみんなはそれをはね越えて中へ入りました。向うの少し小高いところにてかてか光る茶いろの馬が七疋ばかり集まってしっぽをゆるやかにばしゃばしゃふっているのです。
「この馬みんな千円以上するづもな。来年がらみんな競馬さも出はるのだづぢゃい。」一郎はそばへ行きながら云いました。
 馬はみんないままでさびしくって仕様なかったというように一郎だちの方へ寄ってきました。
 そして鼻づらをずうっとのばして何かほしそうにするのです。
「ははあ、塩をけろづのだな。」みんなは云いながら手を出して馬になめさせたりしましたが三郎だけは馬になれていないらしく気味悪そうに手をポケットへ入れてしまいました。
「わあ又三郎馬怖ながるぢゃい。」と悦治が云いました。
 すると三郎は
「怖くなんかないやい。」と云いながらすぐポケットの手を馬の鼻づらへのばしましたが馬が首をのばして舌をべろりと出すとさあっと顔いろを変えてすばやくまた手をポケットへ入れてしまいました。
「わあい、又三郎馬怖ながるぢゃい。」悦治が又云いました。すると三郎はすっかり顔を赤くしてしばらくもぢもぢしていましたが
「そんなら、みんなで競馬やるか。」と云いました。
 競馬ってどうするのかとみんな思いました。
 すると三郎は、
「ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍がないから乗れないや。みんなで一疋ずつ馬を追ってはじめに向うの、そら、あの巨きな樹のところに着いたものを一等にしよう。」
「そいづ面白な。」嘉助が云いました。
「叱られえるぞ。牧夫に見っ附らえでがら。」
「大丈夫だよ。競馬に出る馬なんか練習をしていないといけないんだい。」三郎が云いました。
「よしおらこの馬だぞ。」
「おらこの馬だ。」
「そんならぼくはこの馬でもいいや。」
 みんなは柳の枝や萱の穂でしうと云いながら馬を軽く打ちました。ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首を垂れて草をかいだり首をのばしてそこらのけしきをもっとよく見るというようにしているのです。
 一郎がそこで両手をぴしゃんと打ち合せて、だあと云いました。すると俄かに七疋ともまるでたてがみをそろえてかけ出したのです。
「うまぁい。」嘉助ははね上って走りました。けれどもそれはどうも競馬にならないのでした。第一馬はどこまでも顔をならべて走るのでしたしそれにそんなに競走するくらい早く走るのでもなかったのです。それでもみんなは面白がってだあだと云いながら一生けん命そのあとを追いました。
 馬はすこし行くと立ちどまりそうになりました。みんなもすこしはあはあしましたがこらえてまた馬を追いました。するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところをまわってさっき四人ではいって来たどての切れた所へ来たのです。
「あ、馬出はる、馬出はる。押えろ、押えろ。」
 一郎はまっ青になって叫びました。じっさい馬はどての外へ出たのらしいのでした。どんどん走ってもうさっきの丸太の棒を越えそうになりました。一郎はまるであわてて「どうどうどうどう。」と云いながら一生けん命走って行ってやっとそこへ着いてまるでころぶようにしながら手をひろげたときはもう二疋はもう外へ出ていたのでした。
「早ぐ来て押えろ。早ぐ来て。」一郎は息も切れるように叫びながら丸太棒をもとのようにしました。三人は走って行って急いで丸太をくぐって外へ出ますと二疋の馬はもう走るでもなくどての外に立って草を口で引っぱって抜くようにしています。
「そろそろど押えろよ。そろそろど。」と云いながら一郎は一ぴきのくつわについた札のところをしっかり押えました。嘉助と三郎がもう一疋を押えようとそばへ寄りますと馬はまるで愕いたようにどてへ沿って一目散に南の方へ走ってしまいました。
「兄な馬ぁ逃げる、馬ぁ逃げる。兄な。馬逃げる。」とうしろで一郎が一生けん命叫んでいます。三郎と嘉助は一生けん命馬を追いました。
 ところが馬はもう今度こそほんとうに遁げるつもりらしかったのです。まるで丈ぐらいある草をわけて高みになったり低くなったりどこまでも走りました。
 嘉助はもう足がしびれてしまってどこをどう走っているのかわからなくなりました。
 それからまわりがまっ蒼になって、ぐるぐる廻り、とうとう深い草の中に倒れてしまいました。馬の赤いたてがみとあとを追って行く三郎の白いシャッポが終りにちらっと見えました。
 嘉助は、仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらを薄い鼠色の雲が、速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。
 嘉助はやっと起き上って、せかせか息しながら馬の行った方に歩き出しました。草の中には、今馬と三郎が通った痕らしく、かすかな路のようなものがありました。嘉助は笑いました。そして、
(ふん。なあに、馬何処かで、こわくなってのっこり立ってるさ。)と思いました。
 そこで嘉助は、一生懸命それを跡けて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこへしや、すてきに背の高い薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一向わからなくなってしまいました。嘉助はおういと叫びました。
 おうとどこかで三郎が叫んでいるようです。
 思い切って、そのまん中のを進みました。けれどもそれも、時々断れたり、馬の歩かないような急な所を横様に過ぎたりするのでした。
 空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっと霞んで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(ああ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集ってやって来るのだ。)と嘉助は思いました。全くその通り、俄に馬の通った痕は、草の中で無くなってしまいました。
(ああ、悪くなった、悪くなった。)嘉助は胸をどきどきさせました。
 草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋くなって、着物はすっかりしめってしまいました。
 嘉助は咽喉一杯叫びました。
「一郎、一郎こっちさ来う。」
 ところが何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫の音がポタリポタリと聞えて来ます。
 嘉助はもう早く、一郎たちの所へ戻ろうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違っていたようでした。第一、薊があんまり沢山ありましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々ころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現われました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。
 風が来ると、芒の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん。あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云っている様でした。
 嘉助はあんまり見っともなかったので、目を瞑って横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄の痕で出来上っていたのです。嘉助は、夢中で、短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
 けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸ぐらいになったり、又三尺ぐらいに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻っているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐れてしまいました。
 其処は多分は、野馬の集まり場所であったでしょう、霧の中に円い広場のように見えたのです。
 嘉助はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでも居るように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。
 空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の眼を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
 空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫を払いました。
(間違って原を向う側へ下りれば、又三郎もおれももう死ぬばかりだ)と嘉助は、半分思う様に半分つぶやくようにしました。それから叫びました。
「一郎、一郎、居るが。一郎。」
 又明るくなりました。草がみな一斉に悦びの息をします。
「伊佐戸の町の、電気工夫の童ぁ、山男に手足ぃ縛らえてたふうだ。」といつか誰かの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。
 そして、黒い路が、俄に消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
 空が旗のようにぱたぱた光って翻えり、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。
 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。
 もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。
 又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちています。又三郎の影はまた青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。又三郎は笑いもしなければ物を云いません。ただ小さな唇を強そうにきっと結んだまま黙ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。ふと嘉助は眼をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでいます。
 そして馬がすぐ眼の前にのっそりと立っていたのです。その眼は嘉助を怖れて横の方を向いていました。
 嘉助ははね上って馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなった唇をきっと結んでこっちへ出てきました。嘉助はぶるぶるふるえました。
「おうい。」霧の中から一郎の兄さんの声がしました。雷もごろごろ鳴っています。
「おおい。嘉助。居るが。嘉助。」一郎の声もしました。嘉助はよろこんでとびあがりました。
「おおい。居る、居る。一郎。おおい。」
 一郎の兄さんと一郎が、とつぜん、眼の前に立ちました。嘉助は俄かに泣き出しました。
「探したぞ。危ながったぞ。すっかりぬれだな。どう。」一郎の兄さんはなれた手付きで馬の首を抱いてもってきたくつわをすばやく馬のくちにはめました。
「さあ、あべさ。」
「又三郎びっくりしたべぁ。」一郎が三郎に云いました。三郎がだまってやっぱりきっと口を結んでうなずきました。
 みんなは一郎の兄さんについて緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫らく歩きました。
 稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂がして、霧の中を煙がほっと流れています。
 一郎の兄さんが叫びました。
「おじいさん。居だ、居だ。みんな居だ。」
 おじいさんは霧の中に立っていて、
「ああ心配した、心配した。ああ好がった。おお嘉助。寒がべぁ、さあ入れ。」と云いました。嘉助は一郎と同じようにやはりこのおじいさんの孫なようでした。
 半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲いがあって、チョロチョロ赤い火が燃えていました。
 一郎の兄さんは馬を楢の木につなぎました。
 馬もひひんと鳴いています。
「おおむぞやな。な。何ぼが泣いだがな。そのわろは金山掘りのわろだな。さあさあみんな、団子たべろ。食べろ。な、今こっちを焼ぐがらな。全体何処迄行ってだった。」
「笹長根の下り口だ。」と一郎の兄さんが答えました。
「危ぃがった。危ぃがった。向うさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。さあ嘉助。団子喰べろ。このわろもたべろ。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おじいさん。馬置いでくるが。」と一郎の兄さんが云いました。
「うんうん。牧夫来るどまだやがましがらな、したどもも少し待で。又すぐ晴れる。ああ心配した。俺も虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好がった。雨も晴れる。」
「今朝ほんとに天気好がったのにな。」
「うん、又好ぐなるさ。あ、雨漏って来たな。」
 一郎の兄さんが出て行きました。天井がガサガサガサガサ云います。おじいさんが、笑いながらそれを見上げました。
「おじいさん。明るぐなった。雨ぁ霽れだ。」
「うんうん。そうが。さあみんなよっく火にあだれ、おら又草刈るがらな」
 霧がふっと切れました。陽の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄ってかかり、幾片かの蝋のような霧が、逃げおくれて仕方なしに光りました。
 草からは雫がきらきら落ち、総ての葉も茎も花も、今年の終りの陽の光を吸っています。
 はるかな西の碧い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向うの栗の木は、青い後光を放ちました。みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。湧水のところで三郎はやっぱりだまってきっと口を結んだままみんなに別れてじぶんだけお父さんの小屋の方へ帰って行きました。
 帰りながら嘉助が云いました。
「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣食ってるんだぞ。」
「そだなぃよ。」一郎が高く云いました。

   九月六日

 次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終りの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削ったような青ぞらもできて、その下をまっ白な鱗雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも残りの雲が陽気のように立ちました。
「下ったら葡萄蔓とりに行がなぃが。」耕助が嘉助にそっと云いました。
「行ぐ行ぐ。又三郎も行がなぃが。嘉助がさそいました。耕助は、
「わあい、あそご又三郎さ教えるやなぃぢゃ。」と云いましたが三郎は知らないで、
「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽へ二っつ漬けたよ。」と云いました。
「葡萄とりにおらも連でがなぃが。」二年生の承吉も云いました。
「わがなぃぢゃ。うなどさ教えるやなぃぢゃ。おら去年な新らしいどご目附だぢゃ。」
 みんなは学校の済むのが待ち遠しかったのでした。五時間目が終ると、一郎と嘉助が佐太郎と耕助と悦治と又三郎と六人で学校から上流の方へ登って行きました。少し行くと一けんの藁やねの家があって、その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下の方の葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにならんでいかにも面白そうでした。
 すると又三郎はいきなり、
「何だい、此の葉は。」と云いながら葉を一枚むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、
「わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専売局にうんと叱られるぞ。わあ、又三郎何してとった。」と少し顔いろを悪くして云いました。みんなも口々に云いました。
「わあい。専売局でぁ、この葉一枚ずつ数えで帖面さつけでるだ。おら知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」みんな口をそろえてはやしました。
 すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振り廻わして何か云おうと考えていましたが、
「おら知らないでとったんだい。」と怒ったように云いました。
 みんなは怖そうに、誰か見ていないかというように向うの家を見ました。たばこばたけからもうもうとあがる湯気の向うで、その家はしいんとして誰も居たようではありませんでした。
「あの家一年生の小助の家だぢゃい。」嘉助が少しなだめるように云いました。ところが耕助ははじめからじぶんの見附けた葡萄藪へ、三郎だのみんなあんまり来て面白くなかったもんですから、意地悪くもいちど三郎に云いました。
「わあ、又三郎なんぼ知らなぃたってわがなぃんだぢゃ。わあい、又三郎もどの通りにしてまゆんだであ。」
 又三郎は困ったようにしてまたしばらくだまっていましたが、
「そんなら、おいら此処へ置いてくからいいや。」と云いながらさっきの木の根もとへそっとその葉を置きました。すると一郎は、
「早くあべ。」と云って先にたってあるきだしましたのでみんなもついて行きましたが、耕助だけはまだ残って、
「ほう、おら知らなぃぞ。ありゃ、又三郎の置いた葉、あすごにあるぢゃい。」なんて云っているのでしたがみんながどんどん歩きだしたので耕助もやっとついて来ました。
 みんなは萱の間の小さなみちを山の方へ少しのぼりますと、その南側に向いた窪みに栗の木があちこち立って、下には葡萄がもくもくした大きな藪になっていました。
「こごおれ見っ附だのだがらみんなあんまりとるやないぞ。」耕助が云いました。
 すると三郎は、
「おいら栗の方をとるんだい。」といって石を拾って一つの枝へ投げました。青いいがが一つ落ちました。
 又三郎はそれを棒きれで剥いて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡萄の方へ一生けん命でした。
 そのうち耕助がも一つの藪へ行こうと一本の栗の木の下を通りますと、いきなり上から雫が一ぺんにざっと落ちてきましたので、耕助は肩からせなかから水へ入ったようになりました。耕助は愕いて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に又三郎がのぼっていて、なんだか少しわらいながらじぶんも袖ぐちで顔をふいていたのです。
「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしそうに木を見あげました。
「風が吹いたんだい。」三郎は上でくつくつわらいながら云いました。
 耕助は樹の下をはなれてまた別の藪で葡萄をとりはじめました。もう耕助はじぶんでも持てないくらいあちこちへためていて、口も紫いろになってまるで大きく見えました。
「さあ、この位持って戻らなぃが。」一郎が云いました。
「おら、もっと取ってぐぢゃ。」耕助が云いました。
 そのとき耕助はまた頭からつめたい雫をざあっとかぶりました。耕助はまたびっくりしたように木を見上げましたが今度は三郎は樹の上に居ませんでした。
 けれども樹の向う側に三郎の鼠いろのひじも見えていましたし、くつくつ笑う声もしましたから、耕助はもうすっかり怒ってしまいました。
「わあい又三郎、まだひとさ水掛げだな。」
「風が吹いたんだい。」
 みんなはどっと笑いました。
「わあい又三郎、うなそごで木ゆすったけぁなあ。」
 みんなはどっとまた笑いました。
 すると耕助はうらめしそうにしばらくだまって三郎の顔を見ながら、
「うあい又三郎汝などあ世界になくてもいなあぃ」
 すると又三郎はずるそうに笑いました。
「やあ耕助君失敬したねえ。」
 耕助は何かもっと別のことを云おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことが出来ませんでしたので又同じように叫びました。
「うあい、うあいだが、又三郎、うなみだぃな風など世界中になくてもいいなあ、うわあい」
「失敬したよ。だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」又三郎は少し眼をパチパチさせて気の毒そうに云いました。けれども耕助のいかりは仲々解けませんでした。そして三度同じことをくりかえしたのです。
「うわい、又三郎風などあ世界中になくてもいな、うわい」すると又三郎は少し面白くなった様でまたくつくつ笑いだしてたずねました。
「風が世界中に無くってもいいってどう云うんだい。いいと箇条をたてていってごらん、そら」又三郎は先生みたいな顔つきをして指を一本だしました。耕助は試験の様だしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから云いました。
「汝など悪戯ばりさな、傘ぶっ壊したり。」
「それからそれから」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。
「それがら樹折ったり転覆したりさな」
「それから、それからどうだい」
「家もぶっ壊さな」
「それからそれから、あとはどうだい」
「あかしも消さな、」
「それから、あとは? それからあとは? どうだい」
「シャップもとばさな」
「それから? それからあとは? あとはどうだい。」
「笠もとばさな。」
「それからそれから」
「それがらうう電信ばしらも倒さな」
「それから? それから? それから?」
「それがら屋根もとばさな」
「アアハハハ屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」
「それだがら、うう、それだがらランプも消さな。」
「アハハハハハ、ランプはあかしのうちだい。けれどもそれだけかい。え、おい。それから? それからそれから。」
 耕助はつまってしまいました。大抵もう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんのでした。又三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら「それから? それから? ええ? それから」と云うのでした。
 耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました、
「風車もぶっ壊さな」
 すると又三郎はこんどこそはまるで飛び上って笑ってしまいました。みんなも笑いました。笑って笑って笑いました。
 又三郎はやっと笑うのをやめて云いました。
「そらごらんとうとう風車などを云っちゃったろう。風車なら風を悪く思っちゃいないんだよ、勿論時々こわすこともあるけれども、廻してやる時の方がずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようはあんまりおかしいや。うう、うう、でばかりいたんだろう。おしまいにとうとう風車なんか数えちゃった、ああおかしい」又三郎は又泪の出るほど笑いました。耕助もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました、そしてつい又三郎と一しょに笑い出してしまったのです、すると又三郎もすっかりきげんを直して、
「耕助君、いたずらをして済まなかったよ」と云いました。
「さあそれでぁ行ぐべな。」と一郎は云いながら又三郎にぶどうを五ふさばかりくれました。又三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けました。そしてみんなは下のみちまでいっしょに下りてあとはめいめいのうちへ帰ったのです。

     九月七日

 次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目ころからだんだん晴れて間もなく空はまっ青になり日はかんかん照ってお午になって三年生から下が下ってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。
 ひるすぎは先生もたびたび教壇で汗を拭き四年生の習字も五年生六年生の図画もまるでむし暑くて書きながらうとうとするのでした。
 授業が済むとみんなはすぐ川下の方へそろって出掛けました。嘉助が、
「又三郎水泳びに行がなぃが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と云いましたので又三郎もついて行きました。
 そこはこの前上の野原へ行ったところよりもも少し下流で右の方からも一つの谷川がはいって来て少し広い河原になりそのすぐ下流は巨きなさいかちの樹の生えた崖になっているのでした。
「おおい。」とさきに来ているこどもらがはだかで両手をあげて叫びました。一郎やみんなは、河原のねむの木の間をまるで徒競争のように走っていきなりきものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで両足をかわるがわる曲げてだぁんだぁんと水をたたくようにしながら斜めにならんで向う岸へ泳ぎはじめました。
 前に居たこどもらもあとから追い付いて泳ぎはじめました。
 又三郎もきものをぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途中で声をあげてわらいました。
 すると向う岸についた一郎が髪をあざらしのようにして唇を紫にしてわくわくふるえながら、「わあ又三郎、何してわらった。」と云いました。又三郎はやはりふるえながら水からあがって
「この川冷たいなあ。」と云いました。
「又三郎何してわらった?」一郎はまたききました。
「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と云いながらまた笑いました。
「うわあい、」と一郎は云いましたが何だかきまりが悪くなったように
「石取りさなぃが。」と云いながら白い円い石をひろいました。
「するする」こどもらがみんな叫びました。
 おれそれでぁあの木の上がら落すがらな。と一郎は云いながら崖の中ごろから出ているさいかちの木へするする昇って行きました。そして
「さあ落すぞ、一二三。」と云いながら、その白い石をどぶーんと淵へ落しました。みんなはわれ勝に岸からまっさかさまに水にとび込んで青白いらっこのような形をして底へ潜ってその石をとろうとしました。けれどもみんな底まで行かないに息がつまって浮びだして来て、かわるがわるふうとそらへ霧をふきました。
 又三郎はじっとみんなのするのを見ていましたが、みんなが浮んできてからじぶんもどぶんとはいって行きました。けれどもやっぱり底まで届かずに浮いてきたのでみんなはどっと笑いました。そのとき向うの河原のねむの木のところを大人が四人、肌ぬぎになったり網をもったりしてこっちへ来るのでした。
 すると一郎は木の上でまるで声をひくくしてみんなに叫びました。
「おお、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめで早ぐみんな下流ささがれ。」
 そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながらいっしょに下流の方へ泳ぎました。一郎は、木の上で手を額にあてて、もう一度よく見きわめてから、どぶんと逆まに淵へ飛びこみました。それから水を潜って、一ぺんにみんなへ追いついたのです。
 みんなは、淵の下流の、瀬になったところに立ちました。
「知らないふりをして遊んでろ。みんな。」一郎が云いました。みんなは、砥石をひろったり、せきれいを追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。
 すると向うの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこちを見まわしてから、いきなりあぐらをかいて、砂利の上へ座ってしまいました。それからゆっくり、腰からたばこ入れをとって、きせるをくわいて、ぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思っていましたら、また腹かけから、何か出しました。
「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。一郎は、手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火を、しずかにそれへうつしました。うしろに居た一人は、すぐ水に入って、網をかまえました。庄助は、まるで落ちついて、立って一あし水にはいると、すぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼぉというようなひどい音がして、水はむくっと盛りあがり、それからしばらく、そこらあたりがきぃんと鳴りました。向うの大人たちは、みんな水へ入りました。
「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が云いました。まもなく、耕助は小指ぐらいの茶いろなかじかが、横向きになって流れて来たのをつかみましたしそのうしろでは嘉助が、まるで瓜をすするときのような声を出しました。それは六寸ぐらいある鮒をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでいたのです。それからみんなとってわあわあよろこびました。
「だまってろ、だまってろ。」一郎が云いました。
 そのとき、向うの白い河原を、肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人が、五六人かけて来ました。そのうしろからは、ちょうど活動写真のように、一人の網シャツを着た人が、はだか馬に乗って、まっしぐらに走って来ました。みんな発破の音を聞いて、見に来たのです。
 庄助は、しばらく腕を組んでみんなのとるのを見ていましたが、
「さっぱり居なぃな。」と云いました。すると又三郎がいつの間にか庄助のそばへ行っていました。
 そして中位の鮒を二疋「魚返すよ。」といって河原へ投げるように置きました。すると庄助が、
「何だいこの童ぁ、きたいなやづだな。」と云いながらじろじろ又三郎を見ました。
 又三郎はだまってこっちへ帰ってきました。庄助は変な顔をしてみています。みんなはどっとわらいました。
 庄助はだまって、また上流へ歩きだしました。ほかのおとなたちもついて行き網シャツの人は、馬に乗って、またかけて行きました。耕助が泳いで行って三郎の置いて来た魚を持ってきました。みんなはそこでまたわらいました。
「発破かけだら、雑魚撒かせ。」嘉助が、河原の砂っぱの上で、ぴょんぴょんはねながら、高く叫びました。
 みんなは、とった魚を、石で囲んで、小さな生洲をこしらえて、生き返っても、もう遁げて行かないようにして、また上流のさいかちの樹へのぼりはじめました。ほんとうに暑くなって、ねむの木もまるで夏のようにぐったり見えましたし、空もまるで、底なしの淵のようになりました。
 そのころ誰かが、
「あ、生洲、打壊すとこだぞ。」と叫びました。見ると、一人の変に鼻の尖った、洋服を着てわらじをはいた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんなの魚を、ぐちゃぐちゃ掻きまわしているのでした。
「あ、あいづ専売局だぞ。専売局だぞ。」佐太郎が云いました。
「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけだんだぞ。うな、連れでぐさ来たぞ。」嘉助が云いました。
「何だい、こわくないや。」又三郎はきっと口をかんで云いました。
「みんな又三郎のごと囲んでろ囲んでろ。」と一郎が云いました。
 そこでみんなは又三郎をさいかちの樹のいちばん中の枝に置いてまわりの枝にすっかり腰かけました。
 その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。
「来た来た来た来た来たっ。」とみんなは息をころしました。ところがその男は、別に又三郎をつかまえる風でもなくみんなの前を通りこしてそれから淵のすぐ上流の浅瀬をわたろうとしました。それもすぐに河をわたるでもなく、いかにもわらじや脚絆の汚なくなったのを、そのまま洗うというふうに、もう何べんも行ったり来たりするもんですから、みんなはだんだん怖くなくなりましたがその代り気持ちが悪くなってきました。そこで、とうとう、一郎が云いました。
「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶこだ。いいか。
 あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生云うでなぃか。一、二ぃ、三。」
「あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生云うでなぃか。」
 その人は、びっくりしてこっちを見ましたけれども、何を云ったのか、よくわからないというようすでした。そこでみんなはまた云いました。
「あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生、云うでなぃか。」
 鼻の尖った人は、すぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで云いました。
「この水呑むのか、ここらでは。」
「あんまり川をにごすなよ、
 いつでも先生云うでなぃか。」
 鼻の尖った人は、少し困ったようにして、また云いました。
「川をあるいてわるいのか。」
「あんまり川をにごすなよ、
 いつでも先生云うでなぃか。」
 その人は、あわてたのをごまかすように、わざとゆっくり、川をわたって、それから、アルプスの探険みたいな姿勢をとりながら、青い粘土と赤砂利の崖をななめにのぼって、崖の上のたばこ畠へはいってしまいました。
 すると又三郎は、
「何だいぼくを連れにきたんぢゃないや」と云いながらまっ先にどぶんと淵へとび込みました。
 みんなも何だかその男も又三郎も気の毒なような、おかしながらんとした気持ちになりながら、一人ずつ木からはね下りて、河原に泳ぎついて、魚を手拭につつんだり、手にもったりして、家に帰りました。

   九月八日

 次の朝授業の前みんなが運動場で鉄棒にぶら下ったり棒かくしをしたりしていますと、少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊をそっと抱えてやって来ました。
「何だ。何だ。何だ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。すると佐太郎は袖でそれをかくすようにして急いで学校の裏の岩穴のところへ行きました。みんなはいよいよあとを追って行きました。一郎がそれをのぞくと思わず顔いろを変えました。それは魚の毒もみにつかう山椒の粉で、それを使うと発破と同じように巡査に押えられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横の萱の中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。
 そこでみんなはひそひそ時間になるまでひそひそその話ばかりしていました。
 その日も十時ごろからやっぱり昨日のように暑くなりました。みんなはもう授業の済むのばかり待っていました。二時になって五時間目が終ると、もうみんな一目散に飛びだしました。佐太郎も又笊をそっと袖でかくして耕助だのみんなに囲まれて河原へ行きました。又三郎は嘉助と行きました。みんなは町の祭のときの瓦斯のような匂のむっとする、ねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に着きました。すっかり夏のような立派な雲の峰が、東でむくむく盛りあがり、さいかちの木は青く光って見えました。
 みんな急いで着物をぬいで、淵の岸に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら云いました。
「ちゃんと一列にならべ。いいか、魚浮いて来たら、泳いで行ってとれ。とった位与るぞ。いいか。」
 小さなこどもらは、よろこんで顔を赤くして、押しあったりしながら、ぞろっと淵を囲みました。ペ吉だの三四人は、もう泳いで、さいかちの木の下まで行って待っていました。
 佐太郎、大威張りで、上流の瀬に行って笊をじゃぶじゃぶ水で洗いました。みんなしぃんとして、水をみつめて立っていました。又三郎は水を見ないで、向うの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていました。一郎も河原に座って石をこちこち叩いていました。ところがそれからよほどたっても、魚は浮いて来ませんでした。
 佐太郎は大へんまじめな顔で、きちんと立って水を見ていました。昨日発破をかけたときなら、もう十疋もとっていたんだと、みんなは思いました。またずいぶんしばらくみんなしぃんとして待ちました。けれどもやっぱり、魚は一ぴきも浮いて来ませんでした。
「さっぱり魚、浮ばなぃな。」耕助が叫びました。佐太郎はびくっとしましたけれども、まだ一しんに水を見ていました。
「魚さっぱり浮ばなぃな。」ペ吉が、また向うの木の下で云いました。するともうみんなは、がやがや云い出して、みんな水に飛び込んでしまいました。
 佐太郎は、しばらくきまり悪そうに、しゃがんで水を見ていましたけれど、とうとう立って、
「鬼っこしないか。」と云った。
「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出しました。泳いでいたものは、急いでせいの立つところまで行って手を出しました。一郎も河原から来て手を出しました。そして一郎は、はじめに、昨日あの変な鼻の尖った人の上って行った崖の下の、青いぬるぬるした粘土のところを根っこにきめました。そこに取りついていれば、鬼は押えることができないというのでした。それから、はさみ無しの一人まけかちで、じゃんけんをしました。ところが、悦治はひとりはさみを出したので、みんなにうんとはやされたほかに鬼になった。悦治は、唇を紫いろにして、河原を走って、喜作を押えたので、鬼は二人になりました。それからみんなは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、押えたり押えられたり、何べんも鬼っこをしました。
 しまいにとうとう、又三郎一人が鬼になりました。又三郎はまもなく吉郎をつかまえました。みんなは、さいかちの木の下に居てそれを見ていました。すると又三郎が、
「吉郎君、きみは上流から追って来るんだよ、いいか。」と云いながら、じぶんはだまって立って見ていました。吉郎は、口をあいて手をひろげて、上流から粘土の上を追って来ました。みんなは淵へ飛び込む仕度をしました。一郎は柳の木にのぼりました。そのとき吉郎が、あの上流の粘土が、足についていたためにみんなの前ですべってころんでしまいました。みんなは、わあわあ叫んで、吉郎をはねこえたり、水に入ったりして、上流の青い粘土の根に上ってしまいました。
「又三郎、来。」嘉助は立って、口を大きくあいて、手をひろげて、又三郎をばかにしました。すると又三郎は、さっきからよっぽど怒っていたと見えて、
「ようし、見ていろよ。」と云いながら、本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一生けん命、そっちの方へ泳いで行きました。
 又三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃしているのにあんまり永く水につかって唇もすこし紫いろなので子どもらは、すっかり恐がってしまいました。第一、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったのにそれに大へんつるつるすべる坂になっていましたから、下の方の四五人などは、上の人につかまるようにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいたのでした。一郎だけが、いちばん上で落ち着いて、さあ、みんな、とか何とか相談らしいことをはじめました。みんなもそこで、頭をあつめて聞いています。又三郎は、ぼちゃぼちゃ、もう近くまで行きました。みんなは、ひそひそはなしています。すると又三郎は、いきなり両手で、みんなへ水をかけ出した。みんながばたばた防いでいましたら、だんだん粘土がすべって来て、なんだかすこうし下へずれたようになりました。又三郎はよろこんで、いよいよ水をはねとばしました。するとみんなは、ぼちゃんぼちゃんと一度に水にすべって落ちました。又三郎は、それを片っぱしからつかまえました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまわって泳いで遁げましたら、又三郎はすぐに追い付いて、押えたほかに、腕をつかんで、四五へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は、水を呑んだと見えて、霧をふいて、ごほごほむせて、
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云いました。小さな子どもらはみんな砂利に上ってしまいました。又三郎は、ひとりさいかちの樹の下に立ちました。
 ところが、そのときはもう、そらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、山の草はしんしんとくらくなりそこらは何とも云われない、恐ろしい景色にかわっていました。
 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだしました。淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまいました。みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ遁げこみました。すると又三郎も何だかはじめて怖くなったと見えてさいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなの方へ泳ぎだしました。すると誰ともなく
「雨はざっこざっこ雨三郎
 風はどっこどっこ又三郎」
と叫んだものがありました。みんなもすぐ声をそろえて叫びました。
「雨はざっこざっこ雨三郎
 風はどっこどっこ又三郎」
 すると又三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるように淵からとびあがって一目散にみんなのところに走ってきてがたがたふるえながら
「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんなは一しょに叫びました。ペ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と云いました。又三郎は、気味悪そうに川のほうを見ましたが色のあせた唇をいつものようにきっと噛んで「何だい。」と云いましたが、からだはやはりがくがくふるっていました。
 そしてみんなは雨のはれ間を待ってめいめいのうちへ帰ったのです。

   九月十二日、第十二日

「どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも、吹きとばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 どっどど どどうど どどうど どどう」
 先頃又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです。
 びっくりして跳ね起きて見ると外ではほんとうにひどく風が吹いて林はまるで咆えるよう、あけがた近くの青ぐろい、うすあかりが障子や棚の上の提灯箱や家中一っぱいでした。一郎はすばやく帯をしてそして下駄をはいて土間を下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら風がつめたい雨の粒と一諸にどうっと入って来ました。
 馬屋のうしろの方で何か戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。一郎は風が胸の底まで滲み込んだように思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけだしました。外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云う様に烈しくもまれていました。青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけはしい灰色に光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。遠くの方の林はまるで海が荒れているようにごとんごとんと鳴ったりざっと聞えたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられた風に着物をもって行かれそうになりながらだまってその音をききすましじっと空を見上げました。
 すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一諸に空を翔けて行くような気持ちになって胸を一ぱいはって息をふっと吹きました。
「ああひで風だ。今日はたばこも粟もすっかりやらえる。」と一郎のおじいさんが潜りのところに立ってじっと空を見ています。一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱい汲んで台所をぐんぐん拭きました。それから金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと戸棚から冷たいごはんと味噌をだしてまるで夢中でざくざく喰べました。
「一郎、いまお汁できるから少し待ってだらよ。何して今朝そったに早く学校へ行がなぃやなぃがべ。」
 お母さんは馬にやる〔一字空白〕を煮るかまどに木を入れながらききました。
「うん。又三郎は飛んでったがも知れなぃもや。」
「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」
「うん又三郎って云うやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと椀をこちこち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽を着て下駄はもってはだしで嘉助をさそいに行きました。嘉助はまだ起きたばかりで、
「いまごはんだべて行ぐがら。」と云いましたので一郎はしばらくうまやの前で待っていました。
 まもなく嘉助は小さい簑を着て出てきました。
 烈しい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口からはいって行きますと教室はまだしいんとしていましたがところどころの窓のすきまから雨が板に入って板はまるでざぶざぶしていました。
一郎はしばらく教室を見まわしてから
「嘉助、二人して水掃ぐべな。」と云ってしゅろ箒をもって来て水を窓の下の孔へはき寄せていました。
 するともう誰か来たのかというように奥から先生が出てきましたがふしぎなことは先生があたり前の単衣をきて赤いうちはをもっているのです。
「たいへん早いですね。あなた方二人で教室の掃除をしているのですか。」先生がききました。
「先生お早うございます。」一郎が云いました。
「先生お早うございます。」嘉助も云いましたが、すぐ
「先生、又三郎今日来るのすか。」とききました。先生はちょっと考えて
「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんは昨日お父さんといっしょにもう外へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」
「先生飛んで行ったのすか。」嘉助がききました。
「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんはもいちどちょっとこっちへ戻られるそうですが高田さんはやっぱり向うの学校に入るのだそうです。向うにはお母さんも居られるのですから。」
「何して会社で呼ばったべす。」一郎がききました。
「このモリブデンの鉱脉は当分手をつけないことになった為なそうです。」
「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」
 嘉助が高く叫びました。宿直室の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。
 二人はしばらくだまったまま相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。
 風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇りながらまだがたがた鳴りました。